世界遺産に登録された、ル・コルビュジエのモダニズム住宅建築
《サヴォア邸》は、当時も今もコルビュジエの初期の四大重要作品の最後にして最重要作だが、コルビュジエは、彼以前、以降の建築家の誰よりも、住宅プロジェクトだけでなく都市計画にも広く深く関わった建築家である。多くのプロジェクトにおいて、建築と都市計画は、統合された理念の上に考案されていた。 マルセイユにある集合住宅《ユニテ・ダビタシオン》(1947〜52年)は、建築のみのプロジェクトだが、コルビュジエの社会的目標を体現した作品だ。377戸の集合住宅に加え、ホテルや「空中商店街」を擁する大規模なコンクリートビルは、現在も使用されている。多様な設計のメゾネットの住戸が立体的に配置されており、ホテルや郵便局などの共用施設が点在し、巧みな動線によってつながれている。
《ジャンヌレ=ペレ邸》(別名メゾン・ブランシュ)は、サヴォア邸に近い特徴がある。だが、彼の建築の発展における役割について、あまり注目されることのない作品であり、コルビュジエ自身の著作においても、その他の資料においても軽視されている。 John Hill 保存 メール 伝統建築を脱した新古典主義的デザインは、当時、この地域ではすでに広く見られるものだったが、その後10年間にわたって彼の建築の根幹を占めることになる、モダン建築らしいシンプルさが際立っている。 特に、大きな開口は、5原則の水平連続窓を予感させるものだ。この家の他の開口はほとんどが小さな窓だが、壁構造ではなく鉄筋コンクリート製の床と柱でつくるドミノシステムを考案したことで、窓を自由な位置にとることができるようになったのだ。
ル・コルビュジエは、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並んで、20世紀における三大重要建築家の1人とされている。コルビュジエの建築や都市計画は、建築家たちはもちろん、建設・都市計画の官僚たちにまで影響を与え、彼らの多くがコルビュジエの理念を公共住宅などの計画に取り入れると、さまざまな議論が巻き起こった。 この記事では、2013年6月15日から9月23日までニューヨーク近代美術館で開催された『ル・コルビュジエ:モダン・ランドスケープのアトラス(地図帳)』と題した展覧会を通して、コルビュジエの住宅建築を考察していきたい。この展覧会では、コルビュジエが手がけたさまざまなランドスケープを軸として、キュレーターのジャン=ルイ・コーエンが彼の功績を再検討した。 保存 メール コルビュジエは1887年、スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれた。本名はシャルル=エドゥアルド・ジャンヌレであり、「ル・コルビュジエ」(カラスという意味)は後に自分でつけたニックネームである。ドイツ、ギリシャ、イタリア、トルコを旅したのち、1922年にコルビュジエはパリにアトリエを構えた。1965年に亡くなるまで、50作以上の建築を設計し、30作以上の著作を残し、さらに都市計画も手がけた。 コルビュジエは、その建築、理念、野心から影響力を発揮したが、同時に重要なのは、彼の建築が1920〜30年代のインターナショナル・スタイルのモダニズムから始まって、後にコンクリートを駆使した表現主義的作風に進化していったという点である。この記事では、20世紀において最も大きな影響力を発揮した建築家の1人であるコルビュジエの建築を、住宅作品を通して見ていきたい。 コルビュジエの名を聞いてすぐに浮かぶ住宅作品は、写真の《サヴォワ邸》だろう。1931年にパリの郊外に完成した作品だ。彼の唱えた「近代建築の5原則」――ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面(ファサード)――を体現した、前例のない作品である。だが、彼はどのようにしてこのデザインにたどりついたのだろうか? そして、その後30年間にわたり、大きく作風を変えていくことになった原因や背景は何だったのだろうか?
《カップマルタンの小屋》では、コルビュジエは家具を完全に建築の一部として扱っている。「この空間では、家具から空間を構成した」と本人も語っていた。 展覧会では、小屋の4方の壁の1つをとりはずした実物大模型を展示。モデュロールシステムにしたがって、1日中快適に仕事ができるように設計された合板による内装のゾーニングや、小さな窓が風景をみごとに切り取っているようすがわかる。窓から見えるのは、コルビュジエが1965年8月に溺死することになる海である。
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