レーモンド設計《旧イタリア大使館別荘》
イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。」
写真:Koichi Mori /KiSMet Productions (c) 2017 Houzz Japan チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
若き日のレーモンド。写真提供:北澤建築設計事務所 それから23年後、以前ライトのもとで働いていたアントニン・レーモンドも日光を訪れ、この地に今日まで残る足跡を残すことになる。チェコスロバキア(当時)の在日名誉領事であり、また建築家として東京のフランス、イタリア、アメリカ大使館の設計を手掛けていたことから外交界でよく知られた存在であったレーモンドは、1927年に在日イタリア大使のジュリオ・デラ・トーレ・ディ・ラヴァーニャから中禅寺湖畔の別荘設計を依頼される。イタリア大使館は、大使と賓客が夏を過ごす別荘を建てるため、湖に面した4,056平方メートルの敷地を日本政府から借り入れていた。中禅寺湖が北イタリアのコモ湖を思わせることから、最初にこの地に注目したのはイタリア人だったと言われている。
中禅寺湖周辺の奥日光と呼ばれる地域は、涼しい気候、息をのむような美しい自然、東京から北にわずか180キロメートルという地理的条件から、明治時代(1868-1912)後期には国際外交コミュニティに好まれる避暑リゾート地となった。 保存 メール 往年の中禅寺湖畔の風景。写真提供:日光市立日光図書館 1890年、東京の上野から中禅寺湖の南に位置する小さな町であった日光まで鉄道路線が完成し、2時間ほどで移動が可能になった。それがきっかけとなり、20世紀初頭に日本に住んでいた外国人たちのあいだで日光別荘ブームが起こることになる。 昭和(1925-1989)になると、外国人居住者や大使館に所有される湖畔の別荘は40ほどを数え、夏には国際社交界がこの周辺に集まり、ボート遊びや魚釣り、ハイキング、ピクニックなどに興じたり、地元の夏祭りに参加したりして過ごしていた。 中禅寺湖を訪れる人たちは、道すがら、壮麗豪華な日光東照宮(現在はユネスコ世界遺産となっている)と、岩壁を流れ落ちる雄大な華厳の滝に立ち寄るのが定番だった。1905年、フランク・ロイド・ライトが初来日したときにも日光を訪れ、この地域で初めての西洋風旅館であった金谷ホテルに滞在した。
イタリア大使館別荘記念公園は4月1日から11月30日まで開園(月曜休、ただし6月~10月は無休)。ぜひ、別館の国際避暑地歴史館もいっしょに訪れたい。こちらには、外交官たちとその家族が湖中や湖上で余暇を過ごすようすをとらえた1929年の映像展示もある。中禅寺湖に長く突き出した桟橋に立てば、片方にさざ波を立てる湖面と壮麗な山々、もう片方にアントニン・レーモンドによる美しい別荘を望み、季節を問わず忘れられないパノラマを楽しむことができるだろう。
Q