ルドルフ・シンドラーの住宅建築
バック邸 (ニューヨーク近代美術館)で「国際建築(インターナショナルスタイル)」展が開かれ、建築会に大きな影響を与えたが、シンドラーの〈ロヴェル・ビーチ・ハウス〉は招待作品の中には含まれていなかった(友人であるリチャード・ノイトラの〈ロヴェル・ヘルス・ハウス〉は招待されていた)。しかしその2年後、シンドラーは、この展覧会の主宰者が思い描いたモダニズムの美的定義に合致する建築を手掛けることになる。軽い木造フレームのためヴォリュームをより自由に扱えるようになり、壁面は白く塗ったスタッコで仕上げている。しかし、こちらも共同住宅である点はシンドラー邸と同じで、ガレージの左側に主要な居住空間(駐車禁止標識の奥が玄関)、ガレージの上に賃貸用のユニットがある。
(ニューポート・ビーチ) ふたたび海沿いにあるコンクリートのプロジェクトで、場所はロサンゼルス都市圏のニューポート・ビーチ。健康的生活の提唱者であったフィリップ・ロヴェルのためのビーチハウスで、名作住宅シリーズの記事でも詳しく取り上げているが、今回は「建築家でありエンジニア」であったシンドラーが「建築家でありアーティスト」へと移行するなかでの位置づけに注目したい。ビーチより高い位置につくられた居住空間を支えているコンクリートの骨組みは、厳密にはエンジニアリングの領域に含まれるものの、デザインは彫刻的で、技術面と同じくらい形態の美しさを大切にしていることがうかがえる。 シンドラー邸と同じく、〈ロヴェル・ビーチ・ハウス〉にもスリーピングポーチがあるが、こちらは最終的に壁で覆われた。以前の写真と比べてみてほしい。
プエブロ・リベラ・コート(ラ・ホヤ) 共同住宅についてのアイデアは、サンディエゴ近郊のラ・ホヤにつくられたプエブラ・リベラ・コートのプロジェクトへと続いていく。太平洋に近い立地に12の住戸を設計することを依頼されたシンドラーは、平家をL字型に2戸1組にして並べ、それぞれの住戸をプライベートなパティオに向けて配置するという設計を選んだ。 また、引き続き木造よりもコンクリート構造に注目し、ライトの木造住宅を思わせるような水平に重ねられた壁を、コンクリートで設計している。このコンクリート構造の問題点はいくつか挙げられており、とくに潮風の当たる土地にはあまり適さなかったそうだが(劣化や雨漏りも多かった)、いまも建物は残っている。
シンドラー邸(ロサンゼルス、ウェスト・ハリウッド) 自分の家族とチェイス家のために建てられたこの家がユニークなのは、2世帯住宅というだけでなく、構造やフロアプラン、部屋と屋外空間の関係が独特な点だ。こちらはシンドラーの書斎で(近くの部屋に妻の書斎もあり、どちらも同じパティオを見下ろしていた)、革新的な技術を取り入れていることがわかる。壁は木造ではなくコンクリートパネルを使っており、コンクリートの壁と床に木の屋根というハイブリッドな構造が、頑強な雰囲気の空間をつくり出している。コンクリートパネルのあいだの狭い隙間が窓になり、プライバシーを保っている。壁の外は、近所の家や、チェイス家の屋外空間に面している。
ホリーホック邸(ロサンゼルス、イースト・ハリウッド) ライトはエイリーン・バーンズドールに依頼され、1918年に〈ホリーホック邸〉の設計に着手する。竣工したのはシンドラーの独立と同じ1921年で、ライトはこの3年間の大半を、帝国ホテル建設を監督するため日本で過ごしていた。そのためホリーホック邸ではシンドラーが図面を、ライトの息子が建設監督を担当したが、最終的にはシンドラーがプロジェクトを全面的に引き受けることになる。この家が完成したのち、バーンズドールは長年にわたりシンドラーのクライアントとなった。 ライトの多くのプロジェクトと同様に、建設が進むにつれて費用は膨れ上がり、シンドラーは日本にいるライトの承認を待たず独断で変更を加える必要に迫られた。シンドラーの好みではなかった重厚で彫刻的なデザインも、一部修正されている。ライトは完成した家に満足せず、「大きな困難のなか、やっと完成した。(中略)困難を招いた原因の一部は、アマチュアの手に任せなければならなかった点にある」と述べている。 〈ホリーホック邸〉は大掛かりな改修プロジェクトののち、2015年に再公開された。
ルドルフ・M・シンドラー(1887–1953)は、ロサンゼルスにゆかりのある建築家として知られている。オーストリア生まれのシンドラーだが、20世紀半ばに彼が手掛けた大半の建築は、ロサンゼルス周辺にある。シンドラーがカリフォルニアの後続する世代の建築家たちに与えた影響として、フォルムの柔軟性(機能や技術面よりもそれを重視していた)や、部屋と屋外空間との関係性がよく挙げられる。しかし同時に、点々と風景の中に散らばる単独世帯住宅の枠を超え、集合住宅について新しいアイデアをいくつも生み出したことを忘れるべきではないだろう。 R・M・シンドラー(この名で広く知られるようになる)は、ウィーンで工学と建築を学んだ。ウィーンでわずか1、2年間働いたのち、アメリカに渡り、シカゴの建築事務所で職を得る。ちょうど第一次世界大戦の開戦と同じ月のことだった。 当時はアメリカに永住するつもりではなかったが、戦争の影響と、渡米の数年後にはフランク・ロイド・ライトに雇われたことで、シンドラーのアメリカ滞在は長引いた。さらに、1910年代末、社会的・政治的な問題に関心の高いポーリン・ギブリングと結婚し、ロサンゼルスに引っ越したことが、アメリカ永住の決め手となった。 ウィーン時代からシカゴでのライトの「アプレンティス」時代、そして数十年にわたるロサンゼルスでの仕事まで、キャリア全体を通じて、シンドラーは「建築家兼エンジニア」という立場から、「建築家兼アーティスト」へと移行していった。ライトが彼を雇ったのは、工学の知識を買ったからだが、独立してからのシンドラーは、特徴的なスタイルで独自の道を開拓していった。シンドラーの手掛けたプロジェクトをご紹介しながら、彼の美的・形態的な感覚がどのように進化し、さらにそこから飛躍を遂げたかを見ていこう。 こちらもあわせて 絶対に知っておきたいモダニズムの傑作住宅10選 名作住宅シリーズ サヴォア邸/ファンズワース邸/落水荘/イームズ邸/グラスハウス メール 保存 シンドラーの建築として最も有名なのは、自分の家族と、友人でエンジニアのクライド・チェイス家のために1922年に共同住宅として建てたシンドラー邸だ。現在この建物は、ウィーンを本拠地とする団体が運営する〈MAKセンター〉となっており、アートや建築の展覧会が行われている。シンドラー邸はまたあとで紹介するとして、その前に、シンドラーがフランク・ロイド・ライト事務所時代に手掛けたプロジェクトから見てみよう。
ローレルウッド・アパートメント(ロサンゼルス、ステュディオ・シティ) シンドラーの戦後のプロジェクトは、それ以前、とくに1920年代に手掛けたものに比べると印象が薄い。しかし、ロサンゼルスのステュディオ・シティに建てられたローレルウッド・アパートメントのように、そのころ建設業者がつくっていた投資目的アパートメントとは一線を画するプロジェクトも存在する。建物の手前に、2つのブロックに分かれたガレージエリアがあり(敷地の両サイドにある道路から入る)、その間に配置された通路を歩いていくと、長い屋外スペースになっており、両側にアパートメントが左右対称に広がっている。 戦時中に開発が進んだモジュラー建設を活用したこのアパートメントは、シンドラーが手掛けた最大のプロジェクトであり、歴史的建造物に指定されている。2011年にエクステリアの修復が行われ、星条旗の下に掲げられた「シンドラー・デザイン・アパートメンツ」の旗にも、建物への愛情が感じられる。
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