事務所兼自邸《タリアセン》をたずねて
1909年、建築家フランク・ロイド・ライトとママー・チェニーはヨーロッパに「駆け落ち」した。ヨーロッパに滞在中、ライトはヴァスムート社から出版する作品集(建築史上最も大きな影響を与えた建築図面集と言っていいだろう)を完成させ、チェニーはスウェーデンのフェミニスト、エレン・ケイの著作を研究していた。この欧州旅行は大スキャンダルだった。なにしろ、チェニーは、イリノイ州オークパークでのライトのクライアントの妻であり、ライト自身にも家族があったのだ。シカゴの新聞や教会の牧師たちは、不倫カップルを激しい非難した。そのため、それまで住んでいたオークパークの町に戻ることはもちろん、シカゴでいっしょに暮らすことも不可能になってしまった。 そこで2人はウィスコンシン州の中南部にある丘陵地帯へ向かう。この地で1911年から《タリアセン》の建設が始まった。ライトになじみの深い地域で(この一帯はライトの母方の親類にちなみ「ロイド・ジョーンズの谷」と呼ばれていた)、少年時代にはここで叔父たちの農場を手伝っていたこともあった。ライトは、近隣でヒルサイド・スクールという学校を所有し運営していた叔母たちを説得して土地を売ってもらい、《タリアセン》を作る場所を確保。シカゴからも近く、新たな依頼も舞い込むなか、ライトはこの新しい自邸兼事務所づくりに着手した。 こうして完成したのは、ただの住宅ではない。住まいとオフィスを含む建物のほか、現役の農場と学校も併設されている。ここで、今日まで続く建築事務所〈タリアセン・フェローシップ〉が誕生した。《落水荘》やニューヨークの《グッゲンハイム美術館》、《ジョンソンワックス社ビル》などの20世紀を代表する傑作建築も、ここで設計されたのだ。また《タリアセン》は、ライトが20世紀の偉大なアーティストや作家、俳優や建築家などをもてなした場所でもあった。画家ジョージア・オキーフから作家アイン・ランド、俳優、歌手、作家として活動していたポール・ロブソンまで、じつに多彩な著名人が、ライトとともに田園のひとときを過ごしたのだ。 ライトやチェニーについて、そしてこの素晴らしい住宅についてもっと知りたいという人にぜひ読んでいただきたいのが『Loving Frank』『Death in a Prairie House』『The Women』『The Fellowship』の4冊。そして、実際に《タリアセン》を訪れ、かつてライトと施主カウフマンが膝を交えて《落水荘》のデザインについて相談したという場所をご自身の目で見て、史上最高の建築家の1人であるライトについて、より深く知ってほしいと思う。 Bud Dietrich, AIA メール 保存 南南西からの眺め。当初は、この写真のテラスの左側に、車で入るための道路があった。右側にカンチレバーで突き出ているのは細い通路。...
こちらは、6枚目の写真とほぼ同じ地点から中庭付近を撮影したところ。 1914年、精神障害を持つ使用人が写真右側の住居部分に放火し、《タリアセン》は悲劇の舞台となった。ママー・チェニーと、オークパークから訪れていたママーの子どもたち2人が昼食をとっている最中、この使用人が部屋の鍵をかけて火を放ったのち、ママーと子どもたちを含む7人を斧で殺害したのだ。そのときシカゴで《ミッドウェイ・ガーデン》の建設にかかっていたライトは急ぎ《タリアセン》に戻ったのだが、ママーの夫で殺された子どもたちの父親であるチェニー氏も、シカゴからウィスコンシンまでの道中をライトとともにすることになった。これは史上まれにみる奇妙な道中であったに違いない。 最終的に、ライトは《タリアセン》を再建し、建築家として仕事を続けていくことになる。ライトが亡くなると、遺体は近くにあるロイド=ジョーンズ家の小さな墓地でママーの隣に埋葬された。しかし、ママーに嫉妬した四人目の妻オルギヴァンナ・ライトが遺体を掘り出し、アリゾナ州の《タリアセン・ウエスト》に移動させたという話もある。しかしそれは、また別の建物の物語である。
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