漱石山房記念館
漱石は、“明窓浄机。これが私の趣味であろう。閑適を愛するのである。小さくなって懐手して暮したい。明るいのが良い。暖かいのが良い”と理想を語っています(『文士の生活』)。 「明窓浄机」とは明るく清らかな書斎の意味です。「閑適」とは、静かに心を安んずるさまのことです。 残された言葉とは裏腹に、この和洋折衷の「伽藍」のような空間こそが、まさに漱石が望んだ「明窓浄机」の空間であり、「閑適」な時間だったのではないでしょうか。 再現された漱石山房の書斎は、そんなことを思わせてくれる空間体験を与えてくれました。 いかにも漱石にふさわしそうに思える漱石山房ですが、冬の寒さだけは耐えがたかったようです。寒くてたまらない漱石は、ストーブを出そうと思い、奥さんに去年の燃料代を尋ねますが、その金額を聞いてストーブを使うことを断念し、火鉢だけで我慢する様子が作品に残されています。(『永日小品』明治42年・1909年)。 当時の夏目家の暮らし向きをうかがわせるとともに、それでいてどこかかすかなユーモアも漂う、漱石らしいエピソードです。再現された書斎の隅にはガスストーブが置かれていました。漱石山房にそれが入ったのは漱石最晩年のことだったそうです。
明治43年(1910年)の修善寺の大患から生還し、死の前年に書き継がれたのが随想集『硝子戸の中』です。『硝子戸の中』では、漱石がひとり山房の硝子戸の中にじっと座って、心をながめ、考えをめぐらし、さまざまな瞑想にふける描写が頻繁に登場します。記憶と時間、生と死、自己と他者をめぐる内省が語られます。 薄暗いと不満を漏らしていた漱石が、しばしば縁側に佇んで日の光を楽しみ、ある時は机を出して光の中で心を遊ばせる様子も『硝子戸の中』には描かれています。 “私は机を縁側に持ち出した。其所で日当たりの好い欄干に身をも靠たせたり、頬杖を突いて考えたり、又少時は凝と動かずにただ魂を自由に遊ばせて置いて見たりした” “騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終わるのである。そうした後で、私は一寸肘を曲げて、この縁側に一眠り眠る積である” 漱石は「外発的な」近代化を余儀なくされた日本の苦悩を思い、社会の中での他者との関係に煩悶し、不安で寄る辺のない近代人の自己を見つめた作家です。またひと一倍神経過敏で、不愉快と不機嫌が日常で、権威や権力が大嫌いで、へそ曲がりとでも言ってもよいほどに独自の倫理にこだわった人物でした。 たとえ「貧乏」だったとしても、あるいは「立派な家」ではなかったとしても、本分(自分の目指す文学)をまっとうすることと、その結果おのずともたらされる暮らし向きであることの方が、漱石にとっては、心の底から納得できる生き方だったのではないでしょうか。 反語的な言い方は、漱石の覚悟と矜持の裏返しの表現だったと思えてなりません。 「伽藍」とはもともとは、僧が集まり修行、瞑想する場所のことを指していたそうです。漱石山房の和洋折衷の「伽藍」のような空間は、西洋と日本、近代社会と個人の間で真摯に思考した漱石の精神生活にむしろぴったりの空間のように見えてきます
残された言葉だけをみると、漱石はどうも不満げな様子です。はたして本人は漱石山房の空間を気に入っていなかったのでしょうか。いつか「巨万の富」を手に入れて、もっと「立派な家」を持ちたいと考えていたのでしょうか。 漱石は同時にこんな思いも書いています。 “一体書物を書いて売る事は、私は出来るならしたくないと思う。売るとなると、多少慾が出て来て、評判を良くしたいとか、人気を取りたいとか云う考えが知らず知らずに出て来る。品性が、それから書物の品位が、幾らか卑しくなり勝ちである。理想的に云えば、自費で出版して、同好者に只で頒つと一番良いのだが、私は貧乏だからそれが出来ぬ” 漱石は別のところで、講演をして謝礼を手にするのは好意が汚されているようで得心しない、とも書いています(『硝子戸の中』大正4年・1916年)。 著作を有料で売ることや、講演の謝礼を受け取ることさえ、心底からは納得していなかったような人間が、「巨万の富を蓄え」ようとすることなど、とうてい考えられないことです。「巨万の富を蓄えたなら」と漱石が書いたのは、一種のレトリックであり、反語的な意味合いとしか思えません。 そうでなければ、東京帝国大学の教員の地位を捨ててまで、当時は新興企業のような位置づけだった新聞社の社員になり、小説に専念する生活などしなかったでしょう。
白い壁と白く塗られたドア、床に敷かれた赤いペルシャ絨毯、その上に置かれたこぢんまりとした文机や座布団や火鉢。この空間は、意外にも、和洋がほどよく折衷した、現代にも通じるモダンな佇まいをしています。 山房の主、漱石本人はこの書斎をどう思っていたのでしょうか。漱石の住宅観はどんなものだったのでしょうか。『文士の生活』(大正3年・1914年)と題された随想に漱石山房のことが言及されています。 “私が巨万の富を蓄えたとか、立派な家を建てたとか、土地家屋を売買して金を儲けているとか、種々な噂が世間にあるようだが、皆嘘だ。巨万の富を蓄えたなら、第一こんな穢い家に入って居はしない。土地家屋などはどんな手続きで買うものか、それさえ知らない。此家だって自分の家では無い、借家である、月々家賃を払って居るのである。世間の噂と云うものは無責任なものだと思う” “衣食住に対する執着は、私だってない事はない。いい着物を着て、美味い物を食べて、立派な家に住み度いと思わぬ事は無いが、只それが出来ぬから、こんな処で甘んじている” “こんな家が好きで、こんな暗い、穢い家に居るのではない。余儀なくされて居るまでである”
漱石の書斎は、広さ10畳の板敷きの部屋で、手前に同じ板張りの10畳の部屋が連続しており、こちらは畳を敷いて客間として使われていました。このニ間の外側三方には縁側のような廊下がまわっています。白い木の手摺がついたベランダのような空間が回廊のようにまわっていて、どこかコロニアル様式の住宅を思わせる外観です。 この特殊なつくりの家は、もともとはアメリカ帰りの医師が建てた家でした。書斎の部分は住居兼診療室として建てられた家の診療室部分だったと言われています。 書斎空間は、専門家による考証や漱石の遺愛品を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館、蔵書を「漱石文庫」として所蔵する東北大学附属図書館などの協力を得て再現されました。広さや内装はもちろん、本棚に納められた蔵書や整然と床に積み上げられた書籍の山、壁に架けられていた書、板の間に敷かれていた絨毯、紫檀の机や白磁の火鉢や愛用のオノトの万年筆などの調度品も含めて、漱石が使っていた当時の空間が細部に至るまで忠実に再現されています。 漱石自身も、当時の弟子たちも、この漱石山房の書斎を「伽藍(がらん)」のような空間と表現しています。板敷きの床、天井が高く(天井高3,100mm)縦に伸びる空間のプロポーション、縦長のガラスの腰窓、開き戸(ドア)など、当時の日本家屋とは印象を異にする空間をそう表現したのでしょう。
夏目漱石生誕150年に当たる昨年(2017年)、新宿区立漱石山房記念館がオープンしました。 同記念館は、夏目漱石が晩年の明治40年(1907年)から亡くなる大正5年(1916年)まで住み、漱石山房と呼ばれていた早稲田南町の旧住居跡に建てられています。 漱石は、本格的な小説家となってからの著作のほとんどをここで書いています。『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こヽろ』『道草』、そして絶筆となった未完の『明暗』など、近代日本文学の傑作の数々はここで生まれました。同記念館には、専門家の考証をもとに忠実に再現された晩年の漱石の書斎が展示されています。 早稲田南町は大きな通りから一本入った閑静な住宅地で、漱石が暮らしていた当時もかくやと思わせるような、細い坂道や狭い路地、昔からの寺社などが残されています。漱石が生まれたのもこの近く(現新宿区喜久井町1番地)でした。当時の面影がかすかに残る静かな住宅地に、新宿区立漱石山房記念館を訪ねてみました。 有限会社プロジェ メール 保存 明治36年(1903年)、36歳の夏目漱石は、2年間のイギリス留学から帰国します。母校東京帝国大学英文学科講師や第一高等学校英語科嘱託などを務めながら、明治38年(1905年)、初めての小説『吾輩は猫である』を発表します。 帰国後、一時、牛込区矢来町(現新宿区矢来町)の鏡子夫人の実家の離れに住んだのちに、漱石は、通称《猫の家》と呼ばれる本郷区駒込千駄木町57番地(現文京区向丘2-20-7)に移り、その後、本郷区駒込西片町10番地ろの7号(現文京区西片1-12、13)を経て、明治40年(1907年)に、ここ牛込区早稲田南町7番地(現新宿区早稲田南町7番地)に移り住みます。漱石40歳、教師の職を辞して朝日新聞社の社員となり、小説家として専念することになった年です。 漱石山房の中核ともいえる書斎空間が再現展示されています。
*夏目漱石の著作以外では石﨑等・中山繁信『夏目漱石博物館』(彰国社、2016年)を参照しました。 新宿区立漱石記念館 〒162-0043 東京都新宿区早稲田南町7 TEL:03-3205-0209 http://soseki-museum.jp 開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで) 休館日:月曜日 観覧料:一般300円、小中学生100円(特別展開催時は別途定めます)
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