磯崎新氏の建築とは?
大分県立美術館(1962-66)。写真撮影:Yasuhiro Ishimoto 1954年に東京大学工学部の建築建築学科を卒業した磯崎氏は、1987年にプリツカー賞を受賞した丹下健三氏の見習いとしてキャリアをスタートしました。その後、1963年に自身の事務所を設立し、戦後まだ情勢が安定していない日本で、大分県立図書館(1962-66)の建設を開始しました。 その後、日本各地に活動を広げた磯崎氏は、群馬県立近代美術館(1971-74)や日本万国博覧会お祭り広場(1966-70)などを発表。「様々な作品をつくる過程で、一つのスタイルのみに落ち着くことは出来ないと気づきました。常にスタイルを変化さること自体が、私独自のスタイルとなったのです」と磯崎氏は語ります。 メール 保存 大分県立図書館。写真写真:Yasuhiro Ishimoto 「磯崎氏は、建築のニーズはグローバルでありローカルでもあることを理解していた最初の建築家の1人です。グローバルとローカルは、一見すると全く異なるベクトルを向いているように見えますが、土壌は同じです」と審査員のStephen Breyerは語ります。 「古い歴史を持つ世界で伝統にとどまらない作品を発表する一方で、その伝統を世界に普及させ、そして世界各国から学び続けるという姿勢は、磯崎氏にはあります」
ロサンゼルス現代美術館(1981-86)。写真撮影:Yasuhiro Ishimoto 磯崎氏は、日本と世界の間の対話を促進することの重要性を強調しました。「1960年代に自身の方法論を確立した磯崎氏は、西洋と東洋の間の深く、そして長期にわたる関係を築くことになった最初の日本の建築家でした」と、審査員は述べています。 磯崎新氏の最初の海外作品であるロサンゼルス現代美術館 (1981-86) は、彼の名を世界に一躍知らしめた有名な作品です。「赤いインド砂岩の建物は、スケールに対する磯崎氏の深い理解が反映されています。黄金比と陰陽論を全体に適用させつつ、西洋と東洋の関係性の現代的な本質を換気するものになっています」(審査員) メール 保存 ロサンゼルス現代美術館(1981-86)。写真撮影:Yasuhiro Ishimoto 磯崎氏は1931年に大分県で生まれました。「物心がついた14歳の頃には、第二次世界大戦の空襲で故郷が焼土と化しました。」と磯崎氏は審査員に語っています。 「同じ頃、それほど遠くない広島では原爆が落とされ、爆心地の近くで育ちました。全てが廃墟と化し、建築物はもちろん、都市というものさえ存在しませんでした。バラックやシェルターが、私の生活の全てだったのです。ですので、私の最初の建築体験は、建築の欠落だったといって良いでしょう。ここから、人々がどう家や都市を復興していくのか、興味を持ち始めました」 戦後の復興の中で、磯崎氏は日本国内で多くの作品を残しました。「世界を自分の目で見てみたいと思い、30代に入る前に既に10回も海外へ渡りました。」と磯崎氏は語ります。「世界の様々な場所で、人々がどのような暮らしを営んでいるのか、興味がありました。日本国内だけでなく、イスラム諸国や中国の村や山岳地帯、東南アジアやアメリカの大都市にも足を運びました。この過程で、『建築とは何だろうか?』ということを自問するようになりました」
60年以上のキャリアと、100以上の建築作品で知られる建築家・磯崎新氏が、建築界のノーベル賞といわれる、2019年プリツカー建築賞を受賞したことが3月5日に発表されました。 メール 保存 写真:Arata Isozaki 磯崎新氏は今年で87歳。文脈を丁寧に解釈したうえで地域特有の建設技術を使用する手法で、世界中を舞台に多くの作品を発表し続けています。受賞理由として、「建築の歴史と理論に関する深い知識に加え、磯崎氏は常に前衛を取り入れる芸術家でもあります」と、プリツカー賞の審査員は説明しています。「意味のある建築とは何か?という問いを続ける彼は、分類されることを拒み、常に進化をしながら新鮮な建築作品を作り続けています」 時間と空間の関係性を示す日本の「間」という概念に、磯崎氏の作品に大きな影響を及ぼしています。「宇宙のように、建築は何もないところから生まれます。そこから意味を持って何かになり、そして最終的にはまた何ものでもなくなります」と、磯崎氏は受賞後、New York Timesに語っています。
Domus: La Casa del Hombre (1993-95) 写真撮影:Hisao Suzuki
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